PR

イングリッド・バーグマン:Ingrid Bergman

人気がある歌
記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク


Casablanca (1942): Play it Sam, Play As Time Goes By. Ingrid Bergman, Humphrey Bogart, Sinatra sings

Spellbound (1945) Alfred Hitchcock

「白い恐怖」Spellbound 1944

Ingrid Bergman Wins Supporting Actress: 1975 Oscars

Ingrid Bergman in ‘Murder on the Orient Express’ (1974)

アカデミー助演女優賞となった作品。長いカットで1回の瞬き、目線、言葉遣い、その間まで計算された完璧な演技でした。

スポンサーリンク

イングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman:1915-1982)について

イングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman:1915-1982)主演の映画特集です。と言っても個人的に好きなものを選んだ結果、1940年代のものに偏ってしまいました。しかしイングリッド・バーグマンが1938年に渡米、1939年から数本の映画に出演、1942年のハンフリー・ボガート(Humphrey DeForest “Bogie” Bogart:1899-1957)との共演で、アカデミー賞作品・監督賞を獲得した「カサブランカ」(Casablanca)に主演、以降1942年の「誰が為に鐘は鳴る」(For Whom the Bell Tolls)を経て、アカデミー賞主演女優賞を獲得した1944年の「ガス燈」と、続くヒッチコック作品に出演したこの時期は、彼女のハリウッドでの最盛期でした。

ハリウッド映画デビューから早期に高い評価と人気を得たイングリッド・バーグマンでしたが、一方ではエージェントとの契約による不幸がありました。1936年にスウェーデンで「間奏曲」(Intermezzo)に主演し、この映画を見たハリウッドのプロデューサー、デヴィッド・O・セルズニック(David O. Selznick:1902-1965)にアメリカに招かれた際に、アメリカの契約制度をよく知らず、長期契約を結んだことで、その後急騰した彼女のギャラは、大半がデヴィッド・O・セルズニックのものとなり、彼女には当初の契約どおり週給のみが支払われました。人気が高まるなかで、多くの名作に出演しながら、1948年にこの契約が終るまで経済的な恩恵は余りありませんでした。

1948年にエンタープライズに移籍したイングリッド・バーグマンは、レマルクのベストセラー小説「凱旋門」(Arch of Triumph)の映画化作品に出演しましたが、この作品は当時としては最高の製作費を使いながら、その半分弱が浪費であったと報じらたほど無計画に製作が進められ、その結果、出来上がった映画は精彩に欠けた失敗作となりました。この直後、少女時代からの夢であった「ジャンヌ・ダルク」(Joan of Arc)に主演することなったイングリッド・バーグマンはその喜びと意欲を語り、「風と共に去りぬ」の監督、ヴィクター・フレミングを招き、その情熱をこの作品に傾けました。しかしこれも興行的には失敗に終りました。こうしたハリウッド映画での失敗もあってか、「無防備都市」を撮ったネオ・リアリズムの監督ロベルト・ロッセリーニ(Roberto Rossellini:1906-1977)の芸術に傾倒した彼女は、スウェーデンから共にアメリカに渡った夫と離婚し、イタリアでロッセリーニと結婚しました。この離婚騒動によって彼女の出演したロッセリーニ作品はアメリカの婦人団体の上映拒否運動もあって、ますます映画出演から離れてしまいました。また傾倒していたロッセリーニの映画自体も良い出来ではなかったことも女優としての停滞期となりました。

結局ロッセリーニとも離婚したイングリッド・バーグマンは1956年の2度目のアカデミー主演女優賞を受賞した「追想」(Anastasia)などでアメリカにカムバックしましたが、なかなか良い作品に巡りあうことはありませんでした。イングリッド・バーグマンは歴代のハリウッド女優の中でもトップテンに入る個性的で知的なクール・ビューティー、そして有数の演技派でした。「私の後悔することは、やらなかったことであり、できなかったことではない」 と言った彼女の言葉が残っています。しかしファンにとっては、その才能を真に開花したとは言えない、惜しむ想いが残る大女優でした。

イングリッド・バーグマン:wikipedia

コメントをどうぞ