PR

運動会の音楽・体育の日の意味

定番の名曲
記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク
Wernesgrüner Blasmusikanten - Alte Kameraden 2011
D.B.カバレフスキー/組曲「道化師」 第2曲 ギャロップ

秋と言えばやはり「運動会」の季節、最近では春に行うとことも多いようですが、晴れ渡った秋の青空と澄み切った空気の中での運動会は格別な楽しみがあります。
しかし、日本人なら誰でも聞いて知っている運動会で使用されるマーチや音楽も、意外と曲名を知らない方も多いと思います。ということで、運動会も時代と共に変化していますが、ここに掲載したものが定番。今日はそんな音楽を集めてみましたので、アドレナリンが分泌して元気が出る音楽、なつかしい思い出を呼び起こす音楽、そんな名曲たちを楽しんでみてください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

体育の日、国民の祝日の内でも参加体験者の非常に多いイベントです。ですから、そこではたくさんの人生の思い出が作られ、運動会・体育祭で聞いた音楽は、その聞いたひとり一人の思い出と共に、いつまでも新鮮に蘇るものだと思います。
先ずは歴史:
運動会の始まりは、1874年・明治7年に海軍兵学寮で行われた競闘遊戯会というのが定説です。明治期の国威発揚・富国強兵・健康増進を目的として国策の一環として始められました。ということは1896年の近代オリンピックに先んじていたわけです。その後、1894年の日清戦争、1904年の日露戦争という大きな対外戦争を経験した日本は、軍事調錬の重要性を再確認し、学校教育に運動会・競技会を採用しこれが全国(台湾・朝鮮にも)に広まりました。ちなみに満州でも1931年(昭和6年)満洲国建国記念連合大運動会が開催されました。
変遷:
1966年(昭和41年)から国民の祝日になった「体育の日」は、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの開会式が行われた10月10日に由来しています。
東京オリンピックの国内聖火リレーは、復帰前の沖縄から始まりました。当時アメリカによる占領下にあり、対共産圏の軍需拠点となっていました。そのため沖縄は、パスポートが無くては行けぬ「日本の中の外国」でしたが、日本でのオリンピック開催を期に、国民感情の高まりと共に復帰に向けて大きく動き出しました。本当の意味での日本の戦後の終わりは、1972年(昭和47年)5月15日に調印された沖縄返還協定の締結による沖縄復帰だった思います。東京オリンピックはそうした社会状況からも、多くの人びとにとって、戦後、日本最大の思い出深いイベントとなりました。
またその後、東京オリンピックを期にスポーツ人口は急激に増加し、今日の隆盛につながっています。また、「体育の日」の制定は、国民の健康増進意識高まりと、その副産物として、日本人の「病気」「衛生」「肥満」への意識を大きく変化させました。日本が長寿国であり、肥満人口が少ないという事象は、東京オリンピック開催を期にして始まったのではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「マイム・マイム」はイスラエルのダンス音楽で、歌詞はヘブライ語の「U’sh’avetem mayim be-sasson Mi-ma’ayaneh ha-yeshua」(ウシュアヴテン、マイム、ベサソン、ミマヤイェネイ、ハイェシュア:あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水をくむ)です。開拓地に水(mayim)が湧き出した喜びの舞踊です。戦後フォーク・ダンスが普及するとともに、1951年に日本に伝わり、その後学校教育で使う音楽として導入され、広く親しまれることになりました。イスラエルはもちろんのこと、日本以外の国でも親しまれています。

「オクラホマミキサー」の原曲はアメリカの古謡「Turkey in the Straw:藁の中の七面鳥」です。七面鳥と言えば、感謝祭のご馳走を思い出すくいしんぼうの方も多いと思います。感謝祭はカナダでは10月、アメリカでは11月、時期が少し異なりますが、実り多い収穫に感謝するお祭りであるとともに、農閑期の庶民の娯楽でもあります。それで「オクラホマミキサー」は、この頃になると何処かの町で演奏されている楽しい音楽となっています。でも日本ではやはりフォークダンスの定番音楽ですね。長く運動会、体育祭などで演奏されて人々に親しまれている歌です。

その他、聞き覚えのある曲が多いと思いますが、一曲づつの紹介は、今日は略させていただきます。

それでは、みなさんも秋の一日に、青空の下で、たくさんの良い思い出を残す楽しい音楽と共にお過ごしください。

コメントをどうぞ