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信貴山縁起絵巻 物語の概略

絵画・アート
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『源氏物語絵巻』、『鳥獣人物戯画』、『伴大納言絵詞』と並ぶ四大絵巻物の1つ「信貴山縁起絵巻」です。

平安時代、延喜(えんぎ)年間に信貴山で毘沙門天(びしゃもんてん)を祀り、不思議な法力で寺を中興した命蓮(みょうれん)上人(しょうにん)の事績を物語風に描いた絵巻物です。
「飛倉(とびくら)ノ巻」(山崎長者の巻)「延喜加持(えんぎかじ)ノ巻」「尼公(あまぎみ)ノ巻」の三巻からなり、日本の絵巻物における最高傑作といわれています。異時同図法や視点移動を意図した構図、空間処理などを簡潔な描線で表現しています。

各巻の物語の概略

山崎長者の巻(飛倉の巻): 31.7cm×879.9cm

信濃の国より奈良に来て東大寺で授戒した法師(命蓮)が、帰郷を思いとどまり大仏の前であちこち見ていると坤(未申(ひつじさる):南西)の方向にかすかに信貴山が見えた。そこで修行する内に小さな厨子に入った毘沙門天を得、ささやかなお堂を建てて一心に修行を行った。
山の麓の山崎の長者のもとに命蓮上人が托鉢(たくはつ)のために飛ばした鉢が飛来するが、長者は度重なる托鉢を嫌って瓦葺きの米倉に鉢を閉じこめてしまう。
絵巻はこの場面から始まっている。鉢は倉から飛び出すと、校倉造りの倉を乗せて信貴山へ飛んで命蓮の所まで帰ってしまう。長者は馬に乗り、あわてて従者とともに後を追い、信貴山に登って命蓮に倉を返してくれとを懇願する。命蓮は倉は返さないが、倉の中にある米俵は返すと約束し、長者の従者に俵を一つ鉢に乗せるように指示する。すると、俵を乗せた鉢が米俵を従えて飛行し、長者宅に帰り着く。巻は長者の下女達が驚き喜ぶ様子で締めくくられている。

延喜加持の巻: 31.7cm×1290.8cm

命蓮の加持祈祷の力で、病の床にあった醍醐天皇の病いが平癒する。「剣の護法」(童子)が、空を飛び、転輪聖王の金輪を転がし、後ろに飛行機雲のような細長い雲を残して、天皇のいる清涼殿に現れる。
時の帝、醍醐(だいご)天皇は病の床にあった。高僧の祈祷(きとう)を受けるが、改善せず、信貴山で法力を駆使する命蓮に白羽の矢が当たる。絵巻は、信貴山に向かう勅使一行の姿で始まり、入れ違いに宮中に入る高僧と、これを噂の種にする庶民の姿がある。勅使は京都より遙々(はるばる)信貴山に赴き、命蓮に帝の病気平癒を依頼する。命蓮は、自分は京都に行かないが、ここで祈祷すると答えた。勅使は合点がいかないながらも京都に戻ってこれを報告する。
すると、数日して信貴山より都へたくさんの剣を鎧にした童子姿の剣鎧護法(けんがいごほう)が輪宝を廻しつつ、天を懸けて飛来する。、宮中で帝の枕元に立つと、帝の病気はたちまち全快した。
帝はたいそう喜ばれ、僧正の位や荘園を授けようとお礼の勅使を使わすが、命蓮はこれを受けず辞退する。

尼公(あまぎみ)の巻: 31.7cm×1424.1cm

20年も前に、大和国へ得度するために旅立った弟の消息を訪ねようと、従者を連れて姉の尼公が信濃の国を後にする。道中、街道沿いの民家で命蓮の消息を聞く尼公の姿があり、応対する人々の暖かい様子が描かれている。そして鹿の群が描かれ、奈良に入った様子が暗示される。東大寺の大仏の前でぬかずく尼公の姿があり、命蓮の消息をたずねて祈るうちに、仏前でまどろみ、夢枕で大仏に西の方、紫雲たなびく山に命蓮の存在を暗示され、西を目指して出立する。ここでは、大仏の前で複数の尼公が描かれ、「異時同図法」により時間の変化を表現している。
尼公は信貴山に至り、無事命蓮に会うことが出来、土産のあたたかな「たい(祇=僧衣)」を渡し、再開を喜び合う。尼公は信濃に帰らず、命蓮と共に信貴山で信仰生活を送ったのである。命蓮はこの「たい(祇=僧衣)」をずっと着続けたためすっかり破れてしまう。人々はこの切れ端をお守りとし、あの飛倉も朽ちやぶれてしまうが、その材の破片も持ち帰ってお守りにしたのである。巻末には荒れ果てた倉の屋根が描かれ、命蓮の遷化を暗示して終わる。

データ
区 分 国 宝/絵 画 3 巻 平安時代 後期
所 有 信貴山朝護孫子寺 平群町信貴山2280番地
指 定 明治32年 8月 1日 昭和26年 6月 9日

信貴山縁起Wikipedia

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