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江戸川乱歩の「押絵と旅する男」

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江戸川乱歩の「押絵と旅する男」

あらすじ

魚津の浜で蜃気楼の妖しい魔力にうたれて帰る汽車の中には,私のほかにたった一人の先客がいるばかりであった。辺りが夕闇に包まれる頃、この同乗者は窓ガラスに立てかけてあった額絵を風呂敷に包みはじめた。この奇妙な行動や同乗者の異様な風体・要望に興味を覚えた私は近づき話かけた。老紳士は押絵とともに旅しており、景色を見せていたのだと言う。
老紳士はその押絵にまつわる奇妙な話を語りはじめた。
明治の中頃、日本橋通町に住んでいた老紳士は、まだ部屋住みであった兄が頻繁に外出するのを訝った両親から頼まれ、ある日、兄を尾行した。すると兄は関東大震災で倒壊して今は無き、浅草十二階「凌雲閣」の展望台に登り、辺りを遠眼鏡で覗いては、しきりに何かを探しているようだった。私が声を掛けると、兄は遠眼鏡で美しい娘を見出したが、その娘を探しているのだと言う。二人でようやくその娘を探しあててみると、彼女は覗きからくり屋の押絵の八百屋お七だった。押絵の中の娘と分ってもあきらめ切れない兄は、遠眼鏡を逆にして自分を見てくれと頼む。言われたとおりにすると、兄の姿はみるみると小さくなり、押絵の中で娘と一緒に睦まじく坐っていた。私は家に帰って父母にこのことを話したが、一向に取り合ってもらえなかったが、兄の姿はそれきりみえなくなった。私はからくり屋からその押絵を譲り受けて、こうして一緒に旅しているだと言う。…

「押絵と旅する男」
「押絵と旅する男」は、乱歩の趣味嗜好がよく表れている作品です。魚津の浜の蜃気楼の導入部から、逢魔ケ刻の老紳士との出会いなど、読者を引き込んでゆく無理のない構成で読者を非日常の世界へ引き込みます。
絵画の中に人物が入り込むストーリーとしては、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」が頭に浮かびますが、乱歩はストーリ-に深みを与える浅草の描写やレンズ嗜好、ピュグマリオン・コンプレックスなど乱歩の趣味であるモチーフがを用いて、ノスタルジックにこの物語を彩り、独自の味わいを出すことに成功しています。
乱歩の筆は、いつになく饒舌にならず、じつに的確な文章で過不足なく進みます。老紳士はこの不思議な物語について、原因や解釈を語ることもなく、ごく自然な語り口で非現実的で妖しい物語を続けてゆきます。この奇妙なアンバランス感覚は絶妙です。また、乱歩の作品にありがちなどんでん返しもなく、夢幻的な余韻を含んだ結末も好感が持てます。
「現し世は夢、夜の夢こそまこと」は乱歩の座右の銘です。退屈な現実よりも夢や物語の中にこそ真に自分の求める世界があるというような意味あいだと思いますが、その言葉がいちばん似合う作品でもあります。乱歩自身が自分の作品のなかで気にいっている作品に挙げているのも頷けます。

【眠れない朗読】江戸川乱歩「押絵と旅する男」【元NHK フリーアナウンサー島 永吏子】

【眠れない朗読】江戸川乱歩「押絵と旅する男」
【元NHK フリーアナウンサー島 永吏子】さんの素晴らしい朗読です。

乱歩の趣味と「エロ・グロ・ナンセンス」

この作品は昭和4年6月の「新青年」に掲載された乱歩の短編小説です。本格探偵小説を標榜した乱歩ですが、「押絵と旅する男」には推理や巧緻なトリックはありません。しかし抑制のある文体と隙のないストーリー展開、遠い昔の悪夢の郷愁のような内容はどこか心に残るものがあり、一級の幻想文学作品になっています。
少年探偵団シリーズの数作を除いて(初期の数作などは児童向け小説としても素晴らしいのですが、怪人二十面相が宇宙人に変装するとなると、どうも…)、乱歩の作品はすべて読んでいますが、飽きることなく興味を引くのは、推理やトリックではありません。作品に描かれている物や人(あるいは物と、それに憑かれた人)や、時代の雰囲気、小道具にまつわる考証的知識などです。
乱歩はだいぶ物好きな人のようで、多くの作品に印象深い物が登場します。乱歩は物の魔力とでもいうべきものを卓越した筆致で読者の前に披露します。例えばそれは、一枚の切符であったり、手紙あったり、回転木馬であったり、一脚の椅子であったり、レンズや人形であったりと枚挙のいとまがありません。この物に対するこだわりは他の作家にみられない、乱歩の趣味嗜好にほかなりません。蔵の中に膨大な書籍を収集し、その博学な知識が物そのものや、物に憑かれ翻弄される人間を描き出しています。今の言葉で言えば「オタク」として、常人には感知できない物の本質や魅力を描き出すことができた作家が乱歩だと思います。
「押絵と旅する男」の本当の主人公も「私」や老紳士ではなく、物言わぬ押絵の美しい娘のような気もしてきます。

大正デモクラシーは自由奔放な風潮を醸し出し、昭和初期の「エロ・グロ・ナンセンス」という言葉に象徴される大衆文化に繋がりましたが、乱歩の作品の多くもこの傾向にあります。そもそも探偵小説というジャンル自体が、「エロ・グロ・ナンセンス」の上に成り立っているといえます。痴情のもつれ(エロ)で残虐な殺人事件(グロ)を奇想なトリックやアリバイ工作で行い、これを名探偵が知恵と機知で見事に看破する。(ナンセンス)のですから。ただ、大正時代から昭和初期の「エロ・グロ・ナンセンス」は、何しろ軍事国家の統制がある時代ですから、今とは少し意味合いが異なります。(今のほうが余程「エロ・グロ」な作品が氾濫しています。)「エロ・グロ・ナンセンス」は、好奇心の対象としてのエンターテイメントの表現です。「エロ」は性的興味の対象一般、「グロ」は社会や人間の残虐性や良識ある人が眉をひそめる事柄などですが、余りあからさまな表現は、規制があり発禁や削除の対象になるため出来ません。「ナンセンス」は非常識な事柄のみではなく、非現実性や幻想的な事柄から滑稽なこと、機微に富んだウィット、気の利いたユーモアまで含まれるようです。一歩違えば、落語やお笑いコントになってしまいますが、そこに作者の見識や趣味嗜好に関する薀蓄を反映することで小説になります。探偵小説は日本の平和な一時期の中に生まれた知的好奇心あふれるエンターテイメントであり、久生十蘭、夢野久作、小栗虫太郎など強烈な趣味嗜好の個性を持った作家が輩出しました。「新青年」などには、少し洒落て都会的な雰囲気をもったナンセンスな作品が多く掲載されました。乱歩の作品も強くこの時代を反映しています。

戦後の乱歩の作品がやや精細を欠く要因は、やはりこの時代の仇花的な世相や雰囲気が失われたこととともに、戦争という極限の「グロテスク」を経て、現実社会の「エロ・グロ」は乱歩の作品よりも過激になり、その反面として乱歩の趣味嗜好が抑制されているからだと思います。月岡芳年の血みどろな無残絵を好みながら、現実の犯罪を嫌悪した常識人としての乱歩にとって、現実に起こる残虐な殺人や犯罪や、それを上回る「エロ・グロ」を書くことは、もはや探偵小説のエンターテイメントの虚構の「夢」ではなかったのだと思います。この傾向は一般大衆にとっても同様で、〈趣味〉である探偵小説からゲーム性のある推理小説や社会性・時事性のある犯罪小説へ、そして一部はカストリ誌からはじまる乱歩を上回る「エロ・グロ」へと求めるものが変化したことでも分ります。

だいぶ前に、乱歩に関する文章で、久世光彦氏が「この〈趣味〉というのが最近の推理小説のジャンルにあまり無さすぎるのもこまったもので、〈推理〉だけが、それも半端な〈推理〉が罷り通って〈趣味〉の贅沢さ、不思議さ、孤独などはすっかり忘れている。知的遊戯の〈知的〉というのが〈趣味〉の本来的な属性であることがどうでもよくなっているなら、ポーを繰り返し読んでいる方がまだましである。…」と書いていましたが、今でもあまり変りはないように思えます。無理やり作り上げたトリックや荒唐無稽なストーリー、おぞましい残虐表現がエンターテイメントだと勘違いしている方も多いようです。これでは子供だけが喜ぶ遊園地の「おばけ屋敷」に出てくる、薄っぺらなハリボテ人形のようなものです。そんな野暮で露骨なものは大人の興味を引き、観賞に堪えられるものとは思えません。

まだまだ、本当に趣きある味〈趣味〉のある小説を描いている推理作家は数えるほど。ポーやドイル、エラリー・クィーンやアガサ・クリスティ、ヴァン・ダイン、ディクスン・カーやアイリッシュなどの古典、そして乱歩を繰り返し読んでいる方がましと思うのは私だけでしょうか?(・・・ボヤキ?)

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